自分のためにまとめた情報です。今回はモザンビーク。
外務省各国地域情勢より

歴史
1544年:ポルトガル人商人が今の首都マプトに貿易基地を設け植民地活動が本格化
1629年:ポルトガルの支配権確立
1900年:反ポルトガル蜂起活動が続発する
1962年:モザンビーク解放戦線(FRELIMO)の結成
1975年6月:ポルトガルからの独立を果たす(マシェル初代大統領)
1980年:隣国ローデシア白人政府の崩壊、ジンバブエの独立
1984年:IMFと世銀への加盟果たす
1987年1月:経済復興計画(PRE)の実施と市場原理主義に基づく経済政策の実行
1989年7月FRELIMO第5回党大会にてマルクス・レーニン主義の完全放棄を宣言
1989年11月:ベルリンの壁崩壊
1990年7月:RENAMOとの和平交渉
1990年11月:複数政党制を承認した新憲法の発効
1991年:南アフリカでのアパルトヘイト関連法の廃止
1992年10月:ローマにおいて包括和平協定の調印
1992年12月:ONUMOZ設立
1993年12月:パリのドナー会合における国家再建計画(PRN)の公表
1994年10月:大統領・国民議会選挙を実施、シサノ大統領再選、FRELIMOの勝利。
1994年12月:シサノ大統領就任、ONUMOZ撤退/UNHCR再定住戦略策定
1995年4月:第一次国家5カ年開発計画(1995-1999年)の発表
1996年:UNHCR帰還民支援事業からの撤退開始
1997年:UNHCR帰還難民支援事業からの撤退完了
1999年12月:大統領・国民議会選挙実施、シサノ大統領再任、FRELIMOの勝利
1999年12月:絶対的貧困削減活動計画(PARPA)2000-2004の発表
2001年:PARPAI(2001-2005)の策定・発表
2004年12月:大統領・国民議会選挙
2005年2月ゲブーサ大統領就任
2005年2月:第3次国家5カ年計画(2005-2009年)の発表
2006年:PARPAII(2006-2010)の策定・発表
詳細情報
国名:モザンビーク共和国
面積:80.2万平方メートル(日本の2.1倍)
人口:2,010万人(2006年世銀調べ)
首都:マプト(人口107万人、2005)
民族:マクア・ロムウェなど43部族
言語:ポルトガル語
宗教:キリスト教(41%)、イスラム教(17.8%)、原始宗教
政体:共和制
元首:アルマンド・エミリオ・ゲブーサ大統領
議会:共和国議会(一院制)
主要産業:農業:カシューナッツ、小麦、綿花、砂糖など
漁業:エビなど
鉱工:アルミなど
GNI:69億ドル(2006年、世銀調べ)
per capita GNI :340米ドル(2006年、世銀調べ)
経済成長率:8.5%(2006年、世銀調べ)
通貨:メティカル(1メティカル=0.032米ドル)
![[世] インフレ率の推移(モザンビーク)](http://chart.apis.google.com/chart?cht=lc&chs=500x250&chtt=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E7%8E%87%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB(%E5%8D%98%E4%BD%8D%3A%EF%BC%85)%7C%E5%87%BA%E5%85%B8%3AIMF%20-%20World%20Economic%20Outlook(2009%2F10)&chxt=x%2Cy&chxl=0%3A%7C'89%7C'90%7C'91%7C'92%7C'93%7C'94%7C'95%7C'96%7C'97%7C'98%7C'99%7C'00%7C'01%7C'02%7C'03%7C'04%7C'05%7C'06%7C'07%7C'08%7C'09&chdlp=b&chdl=%E3%83%A2%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%BC%E3%82%AF&chco=3399CC&chxr=1%2C5.99%2C244.57&chd=e%3AAAAwBlDLFRKGQcT7VRVDWdZNfGiEnAqsvo0P5x9c..)
インフレ率はなかなかすごいです。次に実質経済成長率の推移を見てみます。
![[世] 実質経済成長率の推移(モザンビーク)](http://chart.apis.google.com/chart?cht=lc&chs=500x250&chtt=%E5%AE%9F%E8%B3%AA%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%88%90%E9%95%B7%E7%8E%87%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB(%E5%8D%98%E4%BD%8D%3A%EF%BC%85)%7C%E5%87%BA%E5%85%B8%3AIMF%20-%20World%20Economic%20Outlook(2009%2F10)&chxt=x%2Cy&chxl=0%3A%7C'89%7C'90%7C'91%7C'92%7C'93%7C'94%7C'95%7C'96%7C'97%7C'98%7C'99%7C'00%7C'01%7C'02%7C'03%7C'04%7C'05%7C'06%7C'07%7C'08%7C'09&chdlp=b&chdl=%E3%83%A2%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%BC%E3%82%AF&chco=3399CC&chxr=1%2C-5.23%2C14.78&chd=e%3AlgT6lqAAsxkaX4..0L2jrfVn37uPlep6rjsenKmdee)
2009年の見通しとしてやはりパフォーマンスは低下しますが、依然として2006年から
2006年8.68% 2007年7.02% 2008年6.80% 2009年予想4.30%
と言うように推移しています。
紛争から現在までの歩み
モザンビークは1975年にポルトガルから独立を遂げたものの、現在の与党でもあるFRELIMO(モザンビーク解放戦線)と対抗するRENAMO(モザンビーク民族抵抗運動)との間で内戦が続き、1992年についにローマでの包括和平協定が締結された。1960年代から続く独立戦争を経てついにつかんだ平和であり、30年以上にわたる流血は、おおよそ100万人が死亡し、紛争前には1,700万人居たとされる人口の10%程度が難民化し周辺へ避難したほか、400万人が国内避難民となった。
国連平和維持部隊がモザンビークにも展開され(ONUMOZ)武装解除、難民帰還、総選挙の準備などの和平プロセスが進められた。その結果、1994年10月には国連の監視団の下、複数政党制による大統領選挙と共和国議会選挙が行われ、FRELIMOが勝利した。それ以来、1999年、2004年にも選挙が行われているが、さしたる混乱なく平和裏に実施されている。
モザンビークの紛争は、地政学的要因、経済的要因、社会的要因の他に、植民地主義や冷戦と言った時代の流れから切り離して考えることはできない。ポルトガル人が実効支配を強めた19世紀後半以降、ポルトガルのサラザール独裁政権によるポルトガル人の入植までは、深刻な対立はなかった。このような入植の結果、20世紀後半にはモザンビークの経済活動を独占し、すべてのアフリカ人から行政権を奪うなどの弾圧政治が行われ、そしてそれは必然的に1962年のFRELIMOの誕生につながることになった。
FRELIMOはモザンビークの北側と国境を接するタンザニアを拠点とし、モザンビーク北部を中心にゲリラ活動を展開した。そのような中、1974年のポルトガル本国による軍事クーデターと民主化により終焉を迎える。1975年にはポルトガルからの独立が宣言され、モザンビーク共和国の建国が達成された。
FRELIMOはマルクス・レーニン主義に基づく社会主義国家運営を行い、中央集権的な統治を推進した。しかしながら、こうした動きを警戒する隣国南ローデシアの白人政府は黒人国家の独立を恐れるため、RENAMOという反政府武装勢力を社会主義体制の打破のために支援をした。この工作は成功を収め、独立間もないモザンビークは内戦への突入を余儀なくされてしまう。
その後、1980年の南ローデシア白人政府の崩壊後、裏方勢力として南アフリカ白人政府が引き続き支援に当たり、RENAMOは米国や英国など西側諸国からの支援を受け、FRELIMOは周辺の黒人国家や東側共産主義諸国からの援助を得て代理戦争の様相を呈した。RENAMOはFRELIMO支配の無効化を狙い徹底的な破壊活動を行った。おおよそ68%の小学校である4,000校が破壊され、さらに50%の保健所(1,100箇所)の破壊、地雷の埋設など破壊工作が行われた。
このような内戦は1991年の南アフリカのアパルトヘイト体制の廃止、冷戦終結を経てそれぞれの支援者を失い、一方1990年から1991年にかけての大干ばつによって、モザンビークは大きく荒廃した。時機は到来し、1992年10月ローマにおいて包括和平合意が調印され、30年以上に及ぶ戦いの歴史がようやく終結した。
このようにして長い長い紛争は終結したのであるが、現在まで平和の定着を成し遂げるとともに、経済・社会発展を成し遂げてきた。紛争終結後速やかな難民・国内避難民の帰還が行われ、選挙もおおきな混乱なくこれまでに3回実施された。紛争終結直後の最優先課題である再定住政策から、現在は貧困撲滅を最優先課題としている。また構造改革を推し進め、地方分権化や汚職対策にも取り組んでいる。
モザンビークの経済成長は、主に外資による天然資源関連によって牽引されてきた。アルミの発掘並びに精錬は優れた輸出財として主要産業になっている。一方で肥沃な大地に支えられた農業国でもあり国民の8割が農業従事者である。マクロ経済の安定、特にインフレの沈静化、構造改革、貧困削減(PARPAII)の推進の結果、1996年から2003年の間に15%の貧困削減が達成された。また教育や保険分野を中心とした社会開発の結果、初等教育就学率は43%(1990年)→71%(2007年)、5歳未満死亡率235人/1,000人(1990年)→152人/1,000人(2007年)へと減少している。
しかしながら、人間開発指数は177カ国中168位と最貧国であり、国内格差が拡大しつつある。GDP成長率は首都やその周辺を中心におおよそ50%程度貢献している一方、特に北部の成長率はあまり貢献していない。また北部・中部で貧困率が減少しつつあるが、南部では現象はおろか、わずかながら上昇しており、地域間格差は拡大している。
外務省各国地域情勢より

歴史
1544年:ポルトガル人商人が今の首都マプトに貿易基地を設け植民地活動が本格化
1629年:ポルトガルの支配権確立
1900年:反ポルトガル蜂起活動が続発する
1962年:モザンビーク解放戦線(FRELIMO)の結成
1975年6月:ポルトガルからの独立を果たす(マシェル初代大統領)
1980年:隣国ローデシア白人政府の崩壊、ジンバブエの独立
1984年:IMFと世銀への加盟果たす
1987年1月:経済復興計画(PRE)の実施と市場原理主義に基づく経済政策の実行
1989年7月FRELIMO第5回党大会にてマルクス・レーニン主義の完全放棄を宣言
1989年11月:ベルリンの壁崩壊
1990年7月:RENAMOとの和平交渉
1990年11月:複数政党制を承認した新憲法の発効
1991年:南アフリカでのアパルトヘイト関連法の廃止
1992年10月:ローマにおいて包括和平協定の調印
1992年12月:ONUMOZ設立
1993年12月:パリのドナー会合における国家再建計画(PRN)の公表
1994年10月:大統領・国民議会選挙を実施、シサノ大統領再選、FRELIMOの勝利。
1994年12月:シサノ大統領就任、ONUMOZ撤退/UNHCR再定住戦略策定
1995年4月:第一次国家5カ年開発計画(1995-1999年)の発表
1996年:UNHCR帰還民支援事業からの撤退開始
1997年:UNHCR帰還難民支援事業からの撤退完了
1999年12月:大統領・国民議会選挙実施、シサノ大統領再任、FRELIMOの勝利
1999年12月:絶対的貧困削減活動計画(PARPA)2000-2004の発表
2001年:PARPAI(2001-2005)の策定・発表
2004年12月:大統領・国民議会選挙
2005年2月ゲブーサ大統領就任
2005年2月:第3次国家5カ年計画(2005-2009年)の発表
2006年:PARPAII(2006-2010)の策定・発表
詳細情報
国名:モザンビーク共和国
面積:80.2万平方メートル(日本の2.1倍)
人口:2,010万人(2006年世銀調べ)
首都:マプト(人口107万人、2005)
民族:マクア・ロムウェなど43部族
言語:ポルトガル語
宗教:キリスト教(41%)、イスラム教(17.8%)、原始宗教
政体:共和制
元首:アルマンド・エミリオ・ゲブーサ大統領
議会:共和国議会(一院制)
主要産業:農業:カシューナッツ、小麦、綿花、砂糖など
漁業:エビなど
鉱工:アルミなど
GNI:69億ドル(2006年、世銀調べ)
per capita GNI :340米ドル(2006年、世銀調べ)
経済成長率:8.5%(2006年、世銀調べ)
通貨:メティカル(1メティカル=0.032米ドル)
インフレ率はなかなかすごいです。次に実質経済成長率の推移を見てみます。
2009年の見通しとしてやはりパフォーマンスは低下しますが、依然として2006年から
2006年8.68% 2007年7.02% 2008年6.80% 2009年予想4.30%
と言うように推移しています。
紛争から現在までの歩み
モザンビークは1975年にポルトガルから独立を遂げたものの、現在の与党でもあるFRELIMO(モザンビーク解放戦線)と対抗するRENAMO(モザンビーク民族抵抗運動)との間で内戦が続き、1992年についにローマでの包括和平協定が締結された。1960年代から続く独立戦争を経てついにつかんだ平和であり、30年以上にわたる流血は、おおよそ100万人が死亡し、紛争前には1,700万人居たとされる人口の10%程度が難民化し周辺へ避難したほか、400万人が国内避難民となった。
国連平和維持部隊がモザンビークにも展開され(ONUMOZ)武装解除、難民帰還、総選挙の準備などの和平プロセスが進められた。その結果、1994年10月には国連の監視団の下、複数政党制による大統領選挙と共和国議会選挙が行われ、FRELIMOが勝利した。それ以来、1999年、2004年にも選挙が行われているが、さしたる混乱なく平和裏に実施されている。
モザンビークの紛争は、地政学的要因、経済的要因、社会的要因の他に、植民地主義や冷戦と言った時代の流れから切り離して考えることはできない。ポルトガル人が実効支配を強めた19世紀後半以降、ポルトガルのサラザール独裁政権によるポルトガル人の入植までは、深刻な対立はなかった。このような入植の結果、20世紀後半にはモザンビークの経済活動を独占し、すべてのアフリカ人から行政権を奪うなどの弾圧政治が行われ、そしてそれは必然的に1962年のFRELIMOの誕生につながることになった。
FRELIMOはモザンビークの北側と国境を接するタンザニアを拠点とし、モザンビーク北部を中心にゲリラ活動を展開した。そのような中、1974年のポルトガル本国による軍事クーデターと民主化により終焉を迎える。1975年にはポルトガルからの独立が宣言され、モザンビーク共和国の建国が達成された。
FRELIMOはマルクス・レーニン主義に基づく社会主義国家運営を行い、中央集権的な統治を推進した。しかしながら、こうした動きを警戒する隣国南ローデシアの白人政府は黒人国家の独立を恐れるため、RENAMOという反政府武装勢力を社会主義体制の打破のために支援をした。この工作は成功を収め、独立間もないモザンビークは内戦への突入を余儀なくされてしまう。
その後、1980年の南ローデシア白人政府の崩壊後、裏方勢力として南アフリカ白人政府が引き続き支援に当たり、RENAMOは米国や英国など西側諸国からの支援を受け、FRELIMOは周辺の黒人国家や東側共産主義諸国からの援助を得て代理戦争の様相を呈した。RENAMOはFRELIMO支配の無効化を狙い徹底的な破壊活動を行った。おおよそ68%の小学校である4,000校が破壊され、さらに50%の保健所(1,100箇所)の破壊、地雷の埋設など破壊工作が行われた。
このような内戦は1991年の南アフリカのアパルトヘイト体制の廃止、冷戦終結を経てそれぞれの支援者を失い、一方1990年から1991年にかけての大干ばつによって、モザンビークは大きく荒廃した。時機は到来し、1992年10月ローマにおいて包括和平合意が調印され、30年以上に及ぶ戦いの歴史がようやく終結した。
このようにして長い長い紛争は終結したのであるが、現在まで平和の定着を成し遂げるとともに、経済・社会発展を成し遂げてきた。紛争終結後速やかな難民・国内避難民の帰還が行われ、選挙もおおきな混乱なくこれまでに3回実施された。紛争終結直後の最優先課題である再定住政策から、現在は貧困撲滅を最優先課題としている。また構造改革を推し進め、地方分権化や汚職対策にも取り組んでいる。
モザンビークの経済成長は、主に外資による天然資源関連によって牽引されてきた。アルミの発掘並びに精錬は優れた輸出財として主要産業になっている。一方で肥沃な大地に支えられた農業国でもあり国民の8割が農業従事者である。マクロ経済の安定、特にインフレの沈静化、構造改革、貧困削減(PARPAII)の推進の結果、1996年から2003年の間に15%の貧困削減が達成された。また教育や保険分野を中心とした社会開発の結果、初等教育就学率は43%(1990年)→71%(2007年)、5歳未満死亡率235人/1,000人(1990年)→152人/1,000人(2007年)へと減少している。
しかしながら、人間開発指数は177カ国中168位と最貧国であり、国内格差が拡大しつつある。GDP成長率は首都やその周辺を中心におおよそ50%程度貢献している一方、特に北部の成長率はあまり貢献していない。また北部・中部で貧困率が減少しつつあるが、南部では現象はおろか、わずかながら上昇しており、地域間格差は拡大している。
ネットに戯れ言を流し始めてから、もう14年経ちました。今回初めてランキングに参加します。
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